ローレンス・オリファント

畠山ら薩摩留学生に、アメリカ転出の計画がもたらされたのは、吉田、鮫島とオリファントの影響であるそうだ。

オリファントは、開港間もない日本を訪れたエルジン卿について来日した。この見聞を書いた本を読んで、若きアーネスト・サトウが東洋の神秘の楽園に憧れたと、彼のA Diplomat of Japanに書かれている。

オリファントは、その後、初代英国領事オルコックの秘書としても日本に滞在し、そのときには、攘夷の志士に襲われ、瀕死の重傷を負った。しかし、日本への愛 は変わらず、イギリスへやって来る日本人留学生の面倒を広く見ていたようで、前述の南貞助を英国士官学校に入れることにも助力したようだ。

畠 山等がロンドンにいる頃、オリファントは、既にハリスに傾倒しているが、彼は外交官、政治家としての側面も持つ。薩摩とイギリスの直接貿易を目論み、寺島 と外務次官のレイヤードという人に会わせたりもしているそうだ(65年7月28日)。恐らく、このレイヤードという人とオリファントとは、外交官としての つながりと共に、大英博物館的なつながりがあると思うので、後々博物館長になる町田、畠山にも、何らかの影響を与えているかもしれない。

ハリスは吉田と鮫島が訪問した翌年の67年、徳川昭武を中心とした幕府使節や、薩摩、佐賀からも参加したパリでの万博を見学しながら、出版、金策などの目的 でパリ、ロンドンにやって来る。林氏の森の研究によれば、このとき(7月2日)にハリスは「日本の預言 Prophecy of Japan」を記したという。

「日本の預言」とは、つづめていうと、日本は、幕府ではなく、「ある藩主(特定の誰かではなく、幕府ではない領主の誰か)」によって再生する(この辺には、教団の独特な解釈があるようなので、ここでは触れない)という内容になっている。

少なくとも、ハリスにはその思惑があり、それを聞いた薩摩藩留学生たちは、「ある藩主」を薩摩藩主に比定したであろう。町田久成がこれを日本へ持ち帰る役割を果たしているはずだが、その後、町田とハリス教団の関係がどうなったのかは不明だ。

その預言乃至思惑は、後にハリス教団に加わる留学生には賛同を得たが、万博にやってきた薩摩藩の代表たる岩下方平らには通じなかったらしく、岩下はフランス人のベルギー貴族、モンブランとの契約に調印して帰国してしまう。

こ れは、五代らの計画で、薩摩藩と外国の合弁会社設立を目的とするものであったらしいが、留学生組はこれに反対して藩へ直接建言を提出する。その中で、「な んでフランスがただ金を出すか、借金を返せなければ、それを口実にフランス軍が乗り込んでくる、とグラバーも言っている」と言っている。

じゃ、 グラバーさんに、イギリスはどうなのか?と聞きたいが、まぁ、平たく言って、フランス、イギリス、ロシアはなんとか日本に金を貸して、できる限り借り倒れ てもらいたかったと思う。アメリカの肩を持つのではないが、アメリカというのはそういう方向性の国ではない。誰か一人が勝手に儲けるのは構わないが、国が 加担することには批判的な傾向が高い。アメリカは他国の主義主張にいちいち干渉してくる割には、領土を奪ってしまおう、という態度で近づいていくことは少 ない。

イギリスとフランスが日本に動かす食指の攻防を、留学生たちはかぶりつきで見ていて、恐らくその辺を報告するのが重要な役割だろうに、結果として、ハリス教団という大穴に持っていかれているのだから、歴史という事実は小説より奇なり、だ。

ハ リスとオリファントは、ハリス教団に参加すれば、自給自足生活なので資金は不要、学習も出来るし、軍事教練の予定もある、渡米費用はオリファントが出す、 と畠山らを誘った。森、吉田、鮫島はその教えにも興味を惹かれ、畠山、松村、長沢を加えた6人は、オリファントと共に渡米を決定した。

1867年7月頃のことであったという。

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