林竹二氏の「森有礼研究第二~森有礼とキリスト教」によると、畠山がフランスなどに行っている1866年の夏休み、松村淳蔵と森有礼はロシアに行き、鮫島尚信と吉田清成はオリファントに連れられて、米国NY州中部、アメニアという町にいたトーマス・レイク・ハリスのもとを訪ねている。アメニアでハリス教団に触れた吉田と鮫島は、この集団に多大な関心を抱き、翌年、イギリスから以下のメンバーでアメリカへ転出した。
- 畠山義成
- 松村淳蔵
- 吉田清成
- 長澤鼎
- 森有礼
- 鮫島尚信
吉田と鮫島が初めて渡米した当時、ハリスはアメニアで、New Life of Brotherhoodという宗教コミューンを形成していた。(以後、この集団のことを「ハリス教団」と呼ぶ。日本語の正式な名称は存在しないため自分の便宜上の呼び方にて失礼。)1年後の1867年、鮫島尚信、吉田清成、森有礼、松村淳蔵、長澤鼎、そして畠山義成の6人はイギリスを離れ、ハリス教団に加わるためにアメリカへ渡る。
同じ年の夏休み、畠山は、日本人とつるんでちゃいかん、ということで、単独でフランスへ行ったようだ。フランスについては、畠山と従兄弟と思われる新納刑部がやけに高評価して、息子を留学させている。フランス行きにはその影響があるだろう。
一方、ロシアを訪れた森は、ロシアに良い印象を持っていないようで興味深い。
同じ頃、薩摩藩は第二弾の留学生(江夏壮助、仁礼景範、種子島敬助、吉原弥次郎(重俊)、湯地治右エ門(定基)、及び、木藤一助の6人)を米国マサチューセッツ州の内陸部にあるモンソンという町に送る。同時期に、幕府も中村正直を取締役とする留学生集団をイギリスに送っている。