南貞助

畠山がイギリスの市民軍に参加したらしいという話に前後して、「オリファントに英国士官学校に入れてもらった(南が本当に入ったかどうかは不明)」という南貞助は、その後もいろんなところに出てくる。

基本的には、南はイギリスにいるのであまり詳しく知らないのだが、通常、英語の資料では南は「高杉晋作のbrother」と書かれている。高杉に兄弟はいないだろ。。。という疑問から調べてしまったところ、高杉の父親・小忠太の妹の子で、養子にしたそうだが、後に養子ではなくなったようだ。

なんでも、南は竹田庸次郎と一緒にイギリスに行ったそうで、畠山の英国士官学校の話が本当であれば、イギリスに渡って来たのは慶応2年くらいだろう。中井弘の日記では、中井は畠山らが参加したという大調練を見学に行って同行者にはぐれてしまい、偶然南に遭遇して涙目になっている(嘘。でもかなり喜んだようだ)。なので、南は1867年春にはイギリスにいたことになる。ここのところがなぜか自分には混乱のもとになっているらしく、中井と南の逸話がどっちがどっちかわからなくなることがままあるのだが、両者とも、つまり、薩摩の留学生とあまり変わらない時期に英国に渡っていたようだ。

中井という人は、岩倉使節がヨーロッパにいるときもその辺を往来していたり、晩年、薩摩に対して憎しみを募らせていく木戸となぜか親しかったりして、果たして何者なのか?と問いたい正体不明なところがある。自分は或いはいわゆる御庭番的な存在?と思わないでもない。

海舟の放言集のどれか(氷川清話?)には、海舟が竹田庸次郎を匿っていたという話がある。

幕末に海舟が、長州との談判で広島に行く頃の話だったと思うが、であれば、竹田はすぐに帰国したのだろうか。長州には帰らず、海舟のもとにいたのは、恐らく長州が既に朝敵になっている時期であることと、洋行帰りは何かと殺される時代だからだろうが、そういう竹田を海舟が匿っている、というのは面白い。海舟の話は、故意なのか、そうでないの か、嘘とも思えないのだが時期や人物がメチャメチャなことがままある。が、竹田を海舟のところで「匿っていた」という部分はホントなのだと思う。

しかし、南というのは、せっかく入ったミリタリーアカデミーはどうなったのだろうか。海舟の息子である小鹿はラトガースのグラマースクールから、アメリカの海軍士官学校(アナポリス)に入り(松村淳蔵、横井佐平太が69年12月、小鹿は71年入学)、卒業するが、同時期にイギリスの士官学校へ通っていた、或いは卒業した日本人はいないと思う。

南はその後、岩倉使節を巻き込んだ銀行倒産時に、その銀行で働いていた、と木戸孝允が日記に書いている。南はオリエンタルバンクでも働いていたので、どう考えてもオリエンタルバンク=バンク・オブ・イングランドがらみだと思うのだが、そこのつながりは調べていない、又は調べたけど、あー、そーかそーか、と思っただけで忘れてしまったので、後日追記する可能性はあり。

余談だが、南は、混血児に興味を抱いて、国際結婚の第一号になっているらしい。公式には、ドイツから帰国して、しばらく待たされてから木戸別荘で結婚した松野礀が国際結婚第一号だと思うのだが、それ以前に国際結婚している人はいるはずなので、細かいことは知らない。というか、これは森有礼と富田鉄之介の両方が契約結婚第一号と言われているのと同じで、どっちが先でも自分にとって影響ない。なので、多分比較的簡単に調べられるはずだが、これは今後も調べない可能性大w。

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