さて、その土岐四郎が当主であり、畠山義成の実家と考えられる市成島津家または敷根島津家は、武鑑の系図で二代前、すなわちこの兄弟のじーさんにあたる人が、島津石見久浮である。
この人も斉彬時代の家老で、当時の薩摩藩の記録に島津石見という名は結構良く出て来る。
ところが、系図を見ると、このじーさんは市成島津の人ではなく、二階堂家から養子に入っている。蔀が二階堂家に養子に入るのはその関係だろう。
石見久浮は安政3(1856)年10月に死んでいる。輝北町郷土誌によると、石見は死ぬ前年、安政2年に引退したらしい。文久3年の薩英戦争時には島津弾正、すなわち土岐四郎が市成島津家の当主のようなので、1855年から最長で63年までが、畠山ら兄弟の父親である右膳ないし主水久誠が当主であった期間と考えられる。この父親についてはあまり情報がないのは在任期間(?)が短いせいだろうか。
武鑑にはまた、久誠の妻、即ち畠山ら兄弟の母親にあたる人は新納久敬女(女=娘)とある。
畠山と一緒に洋行した家老の新納刑部こと中三こと久脩の母親も新納久敬女なので、畠山と新納刑部は母方のいとこということになる。
更に、新納刑部の父親は畠山家の次男で、畠山家から新納家に養子に出ているので、新納家と畠山及びその兄弟はかなり近い親族といえるだろう。
こういうのは図を書くとわかりやすいのでそのうち書くかもしれないが、畠山義成の畠山家、実家と思われる敷根家(市成島津、土岐家)、次兄が養子に行った二階堂家(じーさんの実家)、新納家(刑部の父は畠山家、刑部と畠山らの兄弟は母同士が姉妹らしい)は、ごく近しい家柄であるようだ。