2. 畠山の米国帰国

岩倉使節到着の前年、教育取調べの名目でヨーロッパへ行った畠山は、確かに教育関係の仕事をしていたようだ。

「杉浦弘蔵メモ」に、71年の12月18日付として「英国留学生取締意見書」が載っている。内容は、主に、イギリスで学生監督にあたる者が必要だということと、留学生の監督に対する提案である。そういうことを書くのだから、畠山がそういう仕事をアメリカでしていたのだろう。しかし、フランスまで行って、岩倉使節に合流するために、再度アメリカへ戻ってくる。

岩倉使節に合流するためアメリカへ戻った畠山は、雪のためにユタで足止めをくった使節のワシントン到着が遅れたため、約1ヶ月をアメリカ(恐らくワシントンDCからNYの間)で過ごす。その後、ユタを出発し、岩倉具視はシカゴで息子らと合流するが、一行はシカゴには2日しか滞在せずに先を急ぎ、2月28日、森の部下として公使館に勤める名和緩と共に、畠山はピッツバーグで使節を迎える。

合流当初は役がなく、合流してすぐに三等書記官に任命される。随行の書記官は四等までのようなので、三等書記官というと、ほぼ末席であろう。一等は、通訳の田辺、塩田、何(が)、福地であるから、彼等よりも2段階下ということになる。話がずれるが、一等書記官は旧幕臣ばかりではないか。二等、三等も、立石トミーをはじめ、圧倒的に幕臣系である。

畠山は、ヨーロッパへ行った経緯もよくわからないが、戻ってくる経緯は更にわからない。日本では学制の編成が進んでいるので、むしろ岩倉使節に人材を取られた留守政府に欧米の教育視察報告が必要で、そのために畠山が帰国するのかと思ったが、どうもそうではないらしい。その件は、使節に任されてしまったようだ。しかし、文部省関係者としてではなく、通訳として合流するのだから、この辺り、しつこいようだが身分が下がっているようで気に入らない。どっちでもいいのかも知れないが、この時代の政府は、ゆらぎ指数が大きすぎる。

ただ、吉原重俊と畠山がアメリカからいなくなっているというのは、薩摩にとって、結構大ごとであると思う。前述の通り、畠山がヨーロッパへ去った後、アメリカにいる薩摩藩士は松村、長沢しかいない。もちろん、折田など後出の留学生がいるが、アメリカの事情に詳しい幕末留学生がいない。どうも、その頃サンフランシスコに留学していた岩山敬義が一行についてくるようなのだが、畠山、吉原がいるのといないのとでは、この後、相当違うので、ここで二人を呼び戻したのが誰かわからないが、呼び戻したのは大正解だ。

 

米国帰国から使節合流までの1ヶ月

ともあれ、アメリカに戻った畠山には、まず、1000ドルの借金返済が課せられるようだ。

「杉浦弘蔵メモ」に載っている明治5年2月23日付の手紙で、森は、岩倉使節に宛てて、「畠山は急に帰国が決まったけど、いろんな人に借金してっから、本人の願いに応じて、領事館(という名称ではない)が1000ドル貸したんで、使節に雇ったんなら、その借金を給金から月々返済してもらいたいんだが….」というような内容の手紙を書いている。一方的な思い込みとして、畠山に友達甲斐のない森、という偏見を持つ自分が読むと、とりあえずムッとする。

その1000ドルというのは、全額畠山が個人的にした借金なのか、と詰め寄りたくなる。69年夏まで、吉田、松村、長沢の分を含めた金策に奔走し、フェリスやフレンチらに借りた金の返済で悩まされた畠山が、入金のあてもなく1000ドルも、私費として借金するだろうか。学費や生活費は、公費留学なら畠山個人の借金ではないし、ヨーロッパ往復の費用もしかりである。学費や生活費、ヨーロッパへの旅費関係が入っていない当時の1000ドルは相当な額だ。何にそんなに使うだろう。どう考えても、半分くらいは公務の経費なんじゃねーの?と、思う。全額が私費でないのなら、なんで給金から天引きで払わせるわけ?と言いたい。

やけにきっちりした請求が、森の意志なんだか、畠山からの申し出なんだか、畠山の文書に入ってるんだから、そりゃ畠山の申し出なんだろうけど、もう少し山県有朋や井上馨方向に傾いてもいいんじゃないか、と思ってしまう。官費留学生が政府の仕事でヨーロッパ往復して、それに関わる出費だったら、全額公費扱いにしてやるくらいの融通をきかせんかい!と思うのだ。尤も、この1000ドルの多くは、後に実兄の二階堂蔀が後の国会図書館に寄贈したという1000冊近い書籍に多くを費やしていると思える。寄贈した本は、結局買い取って貰っているらしいので、そこで「行って来い(プラスマイナスでゼロ)」になる計算ということか。

つまり、森も畠山も、二人共、金銭には清廉であったということなのかも知れないが、1000ドルばかりの貸し借りに妙にまともな態度は、森も畠山も、政治家向きでないことを物語ってもいるだろう。

しかし、その借金返済の申し出が功を奏するのか、畠山はアメリカ以降の岩倉使節随行も程なく決まり、とりあえず、収入が安定する。

ヨーロッパから戻った畠山は、岩倉一行の到着を迎えるまでの1ヶ月ばかりを主にワシントンDCで過ごしていたようだから、森の仕事を手伝ってはいただろう。森とランマンの出したLife and Resources in Americaなどは、恐らく手伝っているだろうし、彼らを迎える準備は、何かと大変だったことだろう。

 

合流後

ワシントンへやって来る一行が急務としていたのは、条約改正の件だ。彼らは、条約改正をする予定はなかったのに、ユタで長居するうちに、改正の方向に急激に傾いたのだ。

しかし、岩倉使節のユタ滞在から急速に進む条約改正強行計画については、そのような軽率には畠山は反対だったと久米が言っている。岩倉使節が到着してからは、地道に通訳と案内役を務めていたように見受けられる。

もう一つ、使節が担っていた任務に、前述の外国人教官採用の件がある。

条約改正には、積極的に関わらなかった畠山だが、日本人留学生の代表的な存在であり、代表者としてラトガースに関わっていたことから考えても、文部省のアメリカ人顧問採用の件には、関わっていたはずだ。森が条約改正交渉で忙しくなるにつれて、文部省関係の外人雇用に関する仕事は、畠山に移行したと考えて無理でもないだろう。

それらとは別に、使節到着後の畠山は、岩倉の個人記録者から、一行の公式記録官になった久米邦武と親しくなる。久米が記録者で、畠山が通訳、交渉係というコンビは、この後、帰国まで続き、久米と畠山は帰国後も行き来する親しい仲になる。

二人は、大久保、伊藤の日本往復を待つ間、仕事とは関係なく、個人的に憲法翻訳を始める。これも政治的な思惑とは何ら関係のないことで、単に、何かためになるような翻訳をしたいと思ったまでのことだ、と久米は言っている。

ところが、この憲法翻訳会には、次章の通り、途中から木戸孝允が参加することになる。畠山は、仕事としてでなく、プライベートな時間で木戸と知り合って行くことになるわけだ。木戸は、久米がいう「正直で真摯な学者」の畠山に、個人として、親しみから信頼を置いていくようだ。これが結局、モルレー採用決定にも大きく影響すると考えるが、同時に、森と木戸のバトル中和役も果たすことにもなったのだろう、と思っている。

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