7. 畠山と大久保利通

憲法翻訳勉強会で木戸に格別の信頼を得た畠山はその後、帰国まで岩倉について各国をまわるが、大久保とはどのような関係であったのだろうか。

畠山と大久保は、家格で言えば畠山の方が全然上だ。養子入りして相続した畠山家は一所持格だが、畠山はどうも調所広郷と共に家老を務めた島津石見の孫とみえる。よって実家は一所持で更に上である。

薩摩藩士である畠山には、密航出国の時点から大久保が関わっていたのは当然だろう。しかし、大久保は留学に関する直接の担当者ではないだろう。畠山がイギリスやアメリカから手紙を出しているのは新納や岩左こと岩下左次右衛門、或いは小松帯刀で、大久保には連絡している様子はない。自分が思うに、西郷や大久保は管轄が違うのだろう。

畠山が使節の書記官になるにあたっては、大久保がヨーロッパから呼び戻したとも思うが、自分は、岩倉使節として直接関わるこの時点までは、大久保は畠山に特別の関心を持っていないと思う。大久保にとっての畠山は、学のある真面目な留学生のぼっちゃん程度の評価だったのではなかろうか。畠山には、久米をして学者と言わせる知識や考察力があったろうが、目敏いところがないし、学業的には、吉原や松村の方が優秀であったように思う。森や吉田等、他の薩摩からの留学生と比べても、それほど大久保の目を引く存在ではなかったろうと思うのだ。

しかし、日本へ一時帰国する大久保と伊藤を送ってNYまでついて行った畠山は、日本から戻って来た際も、大久保をピッツバーグまで迎えに行く。

久米の話によれば、大久保、伊藤の留守中に木戸は条約改正中止に意向を変え、その変更を伝えるべく、畠山を伝令に送ったのだそうだ。日本まで戻り、あらゆる反対を押し切って天皇からの正式委任を手に入れて来た大久保は、畠山の出迎えによって、それが無駄な使い走りであったと知らされるわけだ。

ここでキレなかったのだから、大久保はエラい。或いは、そこに、その時点での木戸と大久保の力関係も現れているかも知れないが、大久保は木戸の変心を受け入れたのだ。単に度量が広いということだけでなく、そこから再び争議を繰り広げなかった大久保の瞬間的な判断力と決断力は、並の人間のものではない。

だって、往復だけで2か月くらいかかるんですぜ。これが大久保でなく、木戸が往復している方だったら、いきなり行方不明にでもなりそうなキレ方でグレただろう。明治政府の重鎮でも何でもない、21世紀に飛行機で往復できる自分であっても、ワシントンDCから日本まで往復して無駄足だったら、間違いなくキレる。わだかまらない方が異常だ。しかも、そんな交渉を日本でまとめて勅状を出させ、アメリカまで早急に引き返さなければならない大久保の苦労たるや、想像を絶するではないか。

その大久保に、あなたの苦心惨憺は無駄でしたよ、と畠山は伝えに行ったのだ。

木戸と大久保の関係もこの辺から微妙になるだろうが、畠山と大久保の関係も、この辺で早くも微妙になってしまってしかるべきだ。仮にも薩摩の畠山が、なんで木戸の、しかもそんな内容の使いをしているのか。それだけで条件反射的にムカつかないのだとしたら、大久保の感覚はどうかしている。

しかし、これをのんだのだから、大久保というのはエラい。ということは、説得に当たった畠山がエラいのだが、その辺りで特に評価もされていないのはどうしたことか。西郷と海舟の江戸城開城くらいの手に汗握る名場面になっても良いと思うのだが、大して知られている話でもないだろう。自分が畠山の小説を書くのなら、ここを一つの山場にしたい。そういう場面だ。

が、その後、畠山が大久保に嫌われたか、といえばそうではなく、久米によれば、畠山は大久保には大変かわいがられて、帰国後には大久保の家にしばらく居候していたという。その頃に頻繁に畠山を訪ねて論議していた久米と畠山を、大久保が優しい眼差しで見守っていたという話が、講談社学術文庫の「大久保利通」に出ている。更に、家を建ててもらったそうだから、随分な好意を持たれていたことになる。

その後、大久保の書簡に「息子に関する手紙が読めないからお忙しいとこ誠に申し訳ないがちょっくら読んでくれませんか」などという手紙もある。

こうして、木戸、大久保に認められた畠山は息子の友人でもあり、元々は自分の書記官であった久米とも親しいこともあり、同じ車両に乗って移動する岩倉にとっても有能と評価されただろう。畠山のその後の出世は、岩倉、木戸、大久保に個人的な信頼を得た岩倉使節への合流直後に約束されたわけだ。

岩倉旅行は、大久保>木戸>岩倉の順で、それぞれがばらばらに帰国するが、畠山は久米、岩倉と共に、1873年9月13日、約8年半ぶりに日本の地に戻ることになる。

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