一所持格の畠山家を遡ると長寿院盛淳にたどり着く。長寿院盛淳は、義成よりは有名なのでネットに情報がある。詳しくはそちらをご参考頂きたい。
それよりも近い時代の情報として、土岐四郎、二階堂蔀が兄である、と仮定する根拠は以下の通り。
- 畠山の残したイギリス留学時日記の書写本の一つが「土岐本」と呼ばれ、畠山の甥と言われる『土岐四郎』の息子であった土岐久賀氏によって、鹿児島県立図書館 に寄贈された、という。
西村正守「畠山義成洋行日記(杉浦弘蔵西洋遊学日誌(10/1977)」
福井迪子「畠山義成洋行日記翻刻(3 /1978)」参照 - 後藤純郎氏の「畠山義成の後半世(日本大学人文科学研究所紀要29、1984年)」に、畠山の蔵書を『実兄の二階堂蔀(しとみ)』が当時の東京書籍館、現在の国会図書館に寄贈した、と書かれている。
- 折田彦市(畠山と共にフィラデルフィア万博から帰国。現在の京都大学にあたる旧制三高初代校長として知られる)の日記に、帰国後「二階堂」という人が訪ねて来て、畠山の荷物から日記を探す記述がある(のだが、日本 語の手書き文字なので解読も難しい上にコピーが見えないので、詳細は不明)。
Hikoichi Orita Diary プリンストン大学蔵(コピーのみ。同様のコピーが京大にもある。)
- 学監モルレー夫人、マーサの日記に以下の記述がある。
(1/20/1874の部分)
「明日、畠山宅に招待されている。彼の二人のbrothers(英語なので兄か弟か不明)が薩摩から到着したばかり」
David Murray Papers 米国議会図書館蔵 (マイクロフィルムはアメリカの多くの大学図書館にある)
これらから、土岐四郎、二階堂蔀を畠山の兄と仮定した。
その後、主水久誠は敷根/市成島津の土岐家の人ではないか、と教えて下さった方があり、ここで事態は大きく進展した。