キリスト教に入信

畠山は、日米両方の資料の中で、熱心なクリスチャンであったと言われている。受洗に際してフェリスに宛てた手紙の中では、西洋に来てから3年間、キリスト教のことを考えていた、と言っているが、ニューブランズウィックへ来て約半年で、留学生達はキリスト教に入信する。

畠山は、ハリスの教団を脱退した後、吉田彦麿(種子島敬輔)宛の手紙で、「『君子交絶不出悪声(君子は交わりが絶えた人でも悪口を言わない)』とも言うから、ハリスのことは悪くは言わない」と言っている。

好印象を持っているのでもないだろうが、敢えて取りざたするほどの嫌悪感があったとも見えない。国許に出した手紙では、信じがたい部分もあるが、確かに特殊な才能を持った人だとは思う、というような言い方をしている。一歩下がって冷静に判断しながら、特に悪し様に非難したりはしない、生まれもっての高官候補的な傾向がよくわかる。

しかし、ハリス教団での生活は、畠山の何かを決定的に変えたには違いない。畠山がクリスチャンになったのはハリス教団によるものではないが、彼らとの生活が畠山の入信には大きく影響していると自分は思う。

Wikiによると、薩摩はご一門4家、一所持20家、一所持格21家というから、養子に入った一所持格の畠山家は上から45番目以内の家柄、一所持の市成島津/土岐家が実家とすれば、24番目以内の家で育ったことになる。当時の薩摩の所帯数は知らないが、随分上の方だろう。畑を耕したり、大工仕事をしたりする生活はしていなかったはずだ。

しかし、若くて体が動く時期でもあり、精神的に規律のある自給自足の労働生活には、そういう育ちであればこそ、清廉な価値を見出したであろうことは想像出来る。畠山が教団を離れるのは、教義に疑問があったことと、こんなことをするために日本を離れたのではないと思ったからで、労働に対する不服からではない。労働による自給自足生活は、特権階級、支配者階級として生まれ育った若者に、恐らく、生き物としての自信も与え、信者が皆、一応に労働に勤しむことの当たり前な平等の現実を実地に体験させただろう。更には、唯一特権を持つハリスへの疑問は、封建社会の是非をも考えさせたと想像する。

ハリスの教団もいわゆるキリスト教的な神を最高位に据えている点では、クリスチャンの宗派の一つと言える。というより、聖書を使うので、キリスト教に間違いない。ただ、その通訳として、聖書でなく、ハリスが仲介するので、形式としてはローマ法王と教会が仲介するカトリックに近い。手早く言うと、法王の位置がハリスで、これから教会を増やそうという状態であったわけだ。従ってカトリックとプロテスタントについても畠山は考えていただろう。

自分は、畠山はハリス教団での生活を通じて、唯一絶対なる最上位のもの=神、という価値観に目覚め、その教えであるキリスト教に強い関心を持ったのだと思う。国許への手紙の中で畠山は、日本の歴史では正義が天下取りと同時に動くことを疑問視している。この時代を生きた人間の多くが同じ疑問にとらわれたはずだ。

畠山の場合で言えば、将軍、島津家、天皇の間で揺れ動いたろう。それまで常識として神棚に祀っていたものが、突然異なる立場を主張し、選択を迫ったのだから、その主張に耳を傾けた者ほど選択に迷い、それまでの自分を疑って当然だろう。

手紙に書かれたことから察するに、その精神的な経験から畠山は、天下取りが変わっても揺るがない、ブレない価値観に強い興味を持ったようだ。それが、ハリス教団という一宗派(しかも特異な)での経験を経て、キリスト教そのものにある、という信念にいたったのだろうと察する。その傍らで、オランダ改革派クリスチャンの人々の好意によって生活を立てている事実に、素直に感激し、同教会でのキリスト教受洗を選んだのだろう、とクリスチャンでない自分は考える。

ただ、クリスチャンでない者がクリスチャンになるには、何らかの「腑に落ちる」ような体験が必要にも思うのだが、それについて書かれたものは、吉原重俊のもの(彼の信仰告白的な記事が、以下のとおり当時の新聞に載っている。これはブラウンが載せたと思われる)以外には知らない。

受洗時期について

その頃アメリカにいた日本人留学生のうち、最も早くに受洗したのは、ボストンに近いアマーストにいた新島襄だが、薩摩留学生で受洗日がわかるのは、NY Evangelistというクリスチャン新聞に1869年1月10日とある吉原重俊である。

彼はブラウン牧師の故郷であるオワスコ(NY州西部)のサンドビーチ教会で受洗している。その頃、自宅の火災のためアメリカに戻っていたブラウン牧師はモンソンに住み、モンソンにいた薩摩留学生と近しい関係にあった。恐らく、吉原は、クリスマスからの休暇でブラウンについてオワスコへ行き、ブラウンが牧師をつとめていた教会で受洗したと考えられる。ブラウン牧師によるものなので、宗派はオランダ改革派教会である。

もう一人、日付がわかるのは吉田清成で、彼は、半年間のお試し期間(仮入信?英語でprobation)を経て、69年の6月6日に、ラトガースのあるニューブランズウィックのセントジェイムス・メソディスト教会に入っている。吉田はメソディストである。この記事はNY Timesにも出ている。

湯地と畠山については日付はわからないのだが、吉原の受洗が、上記の新聞(複数の号)、及び、(恐らくその新聞記事を基にしているのだと思うが)グリフィスの著作の中で「最後」と言われている。同紙69年3月11日号のブラウン牧師談でも、「吉田、湯地、畠山、最後に吉原の順に受洗した」と言っているため、湯地、畠山の受洗は吉原の受洗よりも早いらしい。吉田が6月6日に6ヶ月の仮入信を終えて、正式に教会員になっているのだから、仮に入信したのはその6ヶ月前以前、従って、68年の12月6日以前と考えられる。ブラウンは、この仮入信を入信と考えていたのだろう。であれば、68年の12月はじめから69年1月10日までの間に、湯地→畠山の順で受洗したようだ。恐らく、68年のクリスマス休暇中ではないかと思う。上記の新聞には、畠山は、ニューブランズウィックのオランダ改革派第二教会で、Hartrauftという牧師によって受洗したと書かれている。この人は、当時のニューブランズウィック・オランダ改革派第二教会の牧師である。

畠山の受洗については、もう一つ、フェリスへの書簡(69年11月)があり、その中で、自分はいつでも受洗したいのだが、友達二人がまだ決心してない、というようなことを言っている。受洗をためらっているのか、改革派への入信をためらっているのかがいまひとつはっきりしないが、二人というのは、モンソンの湯地、吉原ではないかと思う。というのは、フェリスは永井(吉田清成)は知っているので、永井なら永井と書くと思うからだ。同様に松村や横井兄弟も知っているはずなので、フェリスと直接的な接触がないと見える湯地、吉原ではないか、と思っている。あるいは、勝小鹿とそのグループであった富田、高木、あるいは横井兄弟、又は日下部太郎を指しているかもしれない。

結果的には、当時ニューブランズウィック周辺にいた日本人(薩摩留学生と、日下部、横井兄弟、勝小鹿、富田鉄之助、高木三郎)は「全員」クリスチャンになった、という話と、「一人を除いて全員」という話がある。日下部が入信しなかったことは知られているので、「一人」は日下部をさすのだろうか。

松村は「薩藩海軍史」にある回顧談の中で、松村自身は入信しなかったと言っている。どちらをとって「一人を除き」と言われるのかわからないが、自分は、異国で死んで行く日下部は最期に受洗しているのではないか、とも思っている。

というのは、アメリカでは、死の床にある人のところへは熱心に聖職者が訪れる。所謂、日本でいう「引導を渡す」役だが、キリストを受け入れていない人が亡くなる、ということをアメリカ人は大変不憫がる。遠く日本を離れて亡くなって行く日下部がキリストを受け入れない=天国に入れないことを、アメリカ人の知り合いは相当に案じたはずだ。畠山が最終的に日下部と同居しているようであること、更に、その地(教会の墓)に埋葬されたことを考え合わすと、最期まで入信を拒絶した、とは思われない部分も少なくない。家族その他の関係から、現地の関係者(留学生や知人のアメリカ人)が口をつぐんでしまったのではないか、と思っている。

宣教師を目指す畠山と、新島襄の影響の可能性

驚くことには、71年4月27日の同じ新聞(New York Evangelist)には、畠山が宣教師を志していたことも書かれている。71年4月というと、もう森も米国領事の役割で着任し、畠山にはそろそろ帰国の命令が出る頃だ。

その記事によれば、畠山は宣教師を志し、これに専念したいので、留学生の学費管理役を離れたい、ついては公費留学生から外してほしい、と政府に申し出たらしい。しかし、政府の方では、それでも構わないから引き続きこれまでの勉学、及び役目を務めるように、と言って、手当の額を上げてくれたのだという。

とりあえず、この申し出の手紙はどこかに残されていないのだろうか。誰宛にこの申し出をしているものだろうか。自分は小松帯刀ではないかと思うのだが、小松の日記をあたるところまで進んでいない。『鹿児島県史料』というのは、市販されていないらしく、個人的に入手出来ないらしいから、たどり着くのは大変なのだ。

クラークやマーリーは、「畠山がクリスチャンであることを政府に公言したが、政府ではそれを認めて、より重責に就けていった」と言っている。それは、この、宣教師になりたい、という希望についてを言っているようだ。それがクリスチャン社会にとって喜ばしい話であるために、その新聞に載っているわけだが、畠山がラトガースの科学コースから普通科へ移っているのも、宣教師を目指したためではないか、と思うとつじつまが合う。

当時の神学校、神学部は、聖職者を志す学生と共に、エリートが大学卒業後に、現在で言えば修士、博士課程に入るようなつもりで入る例が多いように見受ける。当時はアメリカも高等教育の制度が確立しておらず、修士以上の課程がある学校は極めて少ない。リンカーンのように大卒でない大統領もあるが、多くのエリートは、まずカレッジを卒業し、その後にどこかの神学校を出ている。恐らく、神学校を履修するには、科学コースの単位ではなく、普通学科の単位が必要だったのだろう、と察する。

当時の神学部、及び、神学校の場合は、現在でも同様だろうが、教徒の施しによって学習を進める寮生活システムになっている場合が多い。ラトガースは畠山が転向しようとする以前に、神学部が神学校として別組織になってしまうので、改革派神学校のシステムは不明だが、つまり、日本政府から金銭的な援助がなくとも、神学部での学習は可能だと思う。それは畠山にとって魅力の一つではあっただろう。

恐らく、ハリス教団での生活を経験し、ニューブランズウィックでは主にクリスチャンのチャリティー精神で暮らしを立てていた畠山にとっては、神学校での生活は何ら障害ではなく、むしろ自然だったろう。留学生の管理役としての仕事に時間を割かれてしまうことをクラークにボヤいていた畠山には、政府から離れ、最も関心を持ったキリスト教の学習に専念することこそ、望んだものだったのに違いない。

その新聞記事にある、宣教師を目指すので公費留学生から外れることを希望した、というのがいつ頃のことかがわからないが、学費管理役をしていること、1870年秋に科学コースから普通科コースに移っていることから考えて、吉田や吉原がヨーロッパへ去った70年頃と考えられる。

その頃、新島襄もアンドーバーの神学校に入っている。

アメリカへ渡った留学生のうち、最も早く受洗した新島は、モンソンの留学生と知り合った頃には既に神学校への進学を志しており、いずれ帰国して日本人を宣教する意志にあった。新島の日記や書簡には、湯地がsin(原罪)について認めていることや、湯地、種子島、吉原と思われるモンソンの学生とキリスト教に関して文通していることなどが書かれている。

ハーディ氏個人の援助によって留学している新島は、政府からは援助を受けていないということが誇りでもあり、それ故に、クリスチャンであることに対しては、政府から干渉を受けない立場を確立している。この新島のあり方は、畠山に直接的な影響を与えていると思える。モンソンにいた湯地、吉原、彦麿とは親しくしていた新島なので、間接的に影響していることは確実なのだが、畠山との直接的な関係を示す文献はまだ知らない。が、必ず、どこかに必ずあると思っている。

更には、この頃には無党派支持のようなことも言っている新島が、日本に帰国して、頑なに会衆派(コングリゲーショナル、アメリカンボード)に固執することと、畠山の宗派にこだわらない方向性は、どこかで議論を戦わせているのではないか、と思っているが、まだそのような資料もsみつけていない。しかし、どちらも、絶対どこかにある、と踏んでいる。

しかしながら、これら全てのクリスチャンになった日本人たちが、いまでいうところのスパイでなかった、という証拠もないように思う。

*この項に関して、吉原重俊の曾孫である吉原重和様、及び、新島、日下部などを調べていらっしゃるF様、更に熊本学園大学のY先生に多くの資料、ご助言を頂きました。心より感謝致します。

コメントを残す