68年にラトガースへ入った三人の薩摩留学生のうち、畠山(杉浦弘蔵)、吉田(永井五百介)の二人は69年にLeft(離校)として学校のカタログに載っている。なぜ離校したのに名簿に載っているのか、ということが疑問だが、それは恐らく、当時の印刷コスト的に、Leftと入れる方が畠山、吉田の二人分を削除するよりも容易だったからでは?と想像する。
しかし、おかげでこの学期、彼らは休学又は退学扱いになったのだな、ということがわかる。
結果から言うと、畠山は離校していない。71年に政府命令でヨーロッパへ行くまで、畠山はラトガースに通っていたと思っている。カタログに「離校」となっているのは学費がないためだが、学期開始ぎりぎりに入金があったので、69年9月からの学期も遅ればせながら、支払いが間に合って復学していると考える。
離校の決断を下す窮地に立たされていたのは、「杉浦弘蔵ノート」にある何通かの藩宛書簡(草稿)から読み取れる。
当初、学校についていけなかったか、その年から日本人を受け入れるアナポリスの海軍士官学校へ入り損ねたのかと思ったが、そうではなく、再び直接的に資金に行き詰まったようだ。
その辺りの金策の顛末が、1869年5月国許へ送金を乞う手紙、その後の8月2日付け種子島(吉田彦麿)宛手紙に書かれている(「杉浦弘蔵ノート」)。
総合すると、以下の経緯とみえる。
フェリスに借りた洋銀765枚(三人分)の返済、及び今後の生活費と学費を得るべく、藩に請求するも送金なし。(765枚の洋銀というのは、1868年6月から1年分相当ではなく、6月から12月末までの6ヶ月分=1学期分らしい。)
畠山は金策のため、またしてもモンソン組の金銭管理をしているらしいFoggのところへ訪ねて行く。モンソンの大原(吉原重俊)は、Foggに送られる資金をNBの三人と分けることに賛成したが、しかし、Foggは、薩摩藩側からそういう話は聞いていない、ということで、モンソン組に送られた金を回すことを拒否した。理由としては、藩の許可なく勝手に渡米した人間との区別が出来ないからではないか、と畠山は想像している。(この辺りが68年末〜69年初めくらいか?)
それとは別に、日本で、先にモンソンから帰国した仁礼から小松帯刀に、直に話をしたらしい。更に、フェリスからフルベッキ経由でも話が行ったようだ。
というか、実際フェリスからの問い合わせを受けたらしいフルベッキは、大阪まで小松に会いに行く。
その後、日本から送金があったが、日下部以下の宛先になっていて、宛名の詳細が不明であったため、薩摩組には回らなかった。後に確かめると、薩摩組の分も含まれていたということで、日下部が文句言われたらしい(薩藩海軍史の中の松村の回顧談)。
そこで、モンソンにいる種子島が、フレンチ(Aaron Weld Davis French、ヒコを介して花房義質、柘植善吾を送った商人と思われる)が日本に帰る予定があるから、相談してはどうかと持ちかけた。畠山はボストンまで行く金がなかったが、モンソンからならボストンは近い、ということで種子島がフレンチとの交渉を買って出た。
その結果、種子島はフレンチから洋銀2000枚の借用に成功する。
そこから畠山自身の学費と生活に50枚ほど回し、松村に60枚、__(判読不明らしいが、長沢か?)には17枚渡した、とある。
これで、フェリスへの借金返済と、その後の生活及び学費を確保したようだ。
ここで、ん?吉田(清成。当時は永井五百介の変名)はどーなっちゃったのか?と思わせるが、吉田はこのときしびれを切らしたのか、見切りをつけたのか、自分で稼いで学校に行く!という意志でニューブランズウィックを離れた。畠山の手紙から想像するには、トーマスというメソディストの知り合いに誘われ、教会で日本のことなど話したりして食いつなぐつもりだったらしい。当時はこういった小規模な講演が大変盛んで、外国から帰った人が旅の話をする、という広告というかお知らせ的なものがよく新聞などに載っている。独立心旺盛な吉田は、じっと送金を待つことに耐えられなくなったものらしい。もっとも、その後入金の知らせを受けたからか、ニューブランズウィックに戻ったとも思われる。
その点畠山は軽率でないのか、フットワークが重いのか、どうも運を天に任せてしまったらしい。この辺りから畠山のキリスト教信仰はいよいよ深まるようだが、それはまたのちほど改めて触れる。
しかし、その後すぐ、恐らくほぼ同日に、フレンチを介して新政府から洋銀3000枚が届いたと見える。更に、フレンチは、この後ごく短期間だが、アメリカの留学生監督役並びに領事的な役を任命される(この辺り、公文書あり)。
その頃、松村はアナポリスへの進学が既に決まっていたと想像するが、松村が伊勢(横井兄弟の兄の方)アナポリスに入るについて、どのようなやりとりがあったのかが不明だ。畠山は、米国政府はとっくに許可しているのに、日本からの許可が出ないので、アナポリスに入れない、ということについても、とっとと手続きをするようにと、前年の手紙で言っている。
カタログで松村だけが残っているのは、せっかくアナポリスに入れる松村は学校に残し、畠山と吉田が金策にあてがつくまで、離校ということにしたのでは?と思っているが、単に誤記かも知れない。
吉田清成のNB離脱
ところが、日本からの送金到着も、種子島経由でのフレンチからの資金繰り成功も待たず、ここで(69年8月)吉田清成はニューブランズウィックを離れたようだ(畠山〜種子島書簡「杉浦弘蔵ノート」。
吉田は、大学教授と合同で(?)、日本についての講義をすることで報酬を得、それでウィルブラハムのウェスリアン大学に行く、という目算を立てたらしい。畠山としては、金が入ってくるまで待とうじゃないか、という気持ちで吉田の転出を止めたようだが、吉田は、自分の持っていた50ドルと知人から借りた50ドルを持ってウィルブラハムへ移り、自分の収入で自活することにしたらしい。畠山は吉田に同情もし、うまくいくといい、と望んでいる。
しかし、吉田は翌年、薩摩藩から外務省(大蔵省も?)関連の仕事についてアメリカ経由でイギリスへ向かう上野景範とNYで会い、イギリスへ留学するためにアメリカを離れたことが公文書館アーカイブの文書に載っている。
このときの上野の渡米〜渡英に伴って吉田がアメリカを離れるにあたっては、大蔵省関係の非常に興味深い事実が中途半端に判明しているので、そのうち別にまとめる。尚、このとき、吉田がイギリスに留学したとも言われるが、日数的にイギリスでの入学、通学は無理であり、公文書は後から日付合わせをしていると考える。吉田の渡欧はオリエンタルバンク、鉄道、大蔵省に関係したものである。
ここで金策に応じたフレンチは、69年8月、というから、畠山がせっせと日本に金策の手紙を書いている最末期、日本政府からアメリカへの送金を管理する役に就く。畠山の手紙では、8月の時点ではまだフレンチはアメリカ東海岸にいるので、恐らくこれは、その後、日本に到着してからの任命で、これも後で日付を合わせたのではないか、と思う。
ということで、畠山が入手した69年9月以降の資金は、究極的には新政府から出たのだろう。つまり、69年9月の学年度から、畠山のスポンサーは薩摩藩ではなくなり、官費留学生になったようだ。
松村は、薩藩海軍史に、フェリスの友人で親切な「ウィリアム」という人が金銭的に助けてくれたと言っている。フレンチのことであるのか、フォッグを間違っているのか、或いは全然関係ない赤の他人のウィリアムであるのか、そこも不明だが、松村は全く面識のない人と言っているので、フォッグやフレンチではないと思える。畠山のフェリス宛の手紙にWilliamsonという人が出資者として出て来るが、その人だろうか。この人は、Benjamin Williamsonという弁護士ではないか?と思っているが、単にその人が検索でみつかっただけなので詳細は不明。
洋銀に関する雑談
金策問題で何度か出て来る「洋銀」だが、Wikiによると一般的にメキシコ銀の1ドルコイン(英語ではSpanish dollar)だそうだ。アメリカでも、これは1枚1ドルと考えて良いだろう。Wikiによると、日本では1868年に金三分だそうだ。
自慢じゃないが、自分はいまだに華氏と摂氏とか、ポンドとグラムとか、フィートとメートルとか、そういうものの計算を知らない。調べればわかることは覚えない性質的素養もあるが、知ってどうするのか、と思うのだ。多分、そういう換算に詳しい人は、常に度量換算をしている人なのだろうが、自分としては、スーパーの肉のパックの見た目で、ああ、これで約1ポンドか、とか、マイケル・ジョーダンの身長は6-6、とか、そういう度量知識で問題ない。どういうときにマイケル・ジョーダンがメートルでどれくらいか、なんてことが必要になるのか、と思うわけだ。バスケファンには大概フィートで世界中通じる。
そういう気持ちから、いろんなところで出て来るものの値段については、いまだに日本でいくらくらいか、ということをちっとも調べない。当時の日米の物価が全然違うので、自分のほしい情報として比較にならない、と思うからだ。
たとえば、日本の江戸期、西洋ではスペインが中南米から大量に金を持ち出し、その後アメリカでゴールドラッシュがあって、金は現在よりも大幅に値崩れしていて、だからこの時代は銀貨が流通しているわけだが、日本は鎖国なので、そういう相場の影響は小さい。と、そういうことを加味して、全く価値基準の異なる時代の日米の物価を比較追求するような数学的な脳みそではないのだから仕方あるまい。
そういう言い訳でもって、この「洋銀765枚」を放っておいたが、調べてみると、これは765ドルのことだとわかった。あはは、そんな単純計算でよかったのね。
しかし、畠山らは月に一人45ドルとして借り出していたらしいので、割ってみたら17なのだ。18なら6ヶ月分でばっちりなのだが、一人分の1ヶ月分が足らない。はじめに借りに行った時、松村が多少遅い到着だったので、松村の1ヶ月分入っていないということなのだろうか。算数に弱い人が余計な計算をすると、このように謎が増えてしまうので、しないに限るのだ。orz