ラトガースでの畠山の在学期間、学科、費用など

在学期間

畠山のラトガース在学について、グリフィスはなぜか、68年入学69年中退、或いは、67年入学という記述もしているのだが、計算が合わないので、68年に入学、69年に資金問題から一度通学を断念したものの復学し、71年に離校が正しいだろう。

クラークは、彼が日本に赴任し、畠山が文部省に呼ばれてヨーロッパ経由で帰国する(実際にはフランスまで行って、岩倉使節に呼び戻される)ために、71年に別れた当時、「畠山は3年生で、あと1年で卒業」だったと言っている。

ラトガースの記録としては、畠山はバチェラー(4年制卒業)を取得してはいないようだという。また、マーリー他の伝える記憶、彼等について書かれた書物にも、畠山はラトガースを卒業した、とは言われていない。自分の調べでも、畠山は、岩倉使節とアメリカを離れる際には卒業しておらず、その後も復学はしていないので、卒業はしていない。

但し、フィラデルフィア万博で訪米した際(1876年6月)に、ラトガース大学から名誉修士号が授与されている。

ラトガース大学のカタログ、成績表を見たところでは、畠山は68年9月に科学コースに入学、70年9月に本科(普通学科、Classic)に転向して1学年分を終了し(カタログ内の在校者名簿より)、71年6月離校(成績表より)となる。カタログでは71-72年にも名前を載せているので、畠山としてはラトガースに復学の意思があったようだ。

この辺りを資料から推察すると、畠山は当初、日下部と同じように科学コースで卒業を目論んでいたが、キリスト教に目覚めたことから、神学部へ進もうと方向転換をしたために、本科へ編入したのではないか?と思われる。大学の単位としては、恐らく、科学コースでの不足教科を取って、大学本科を卒業するような、変則的な計画であったのだろう。総合的に考えて、離校時には4年制大学の3年(Junior)あたりで、「あと1年」というクラークの説は間違っていないようだ。

ラトガース大学(だけではなく、アメリカの大学制度全体だと思うが)はこの頃、改革期にあり、それまであった神学部が神学校として独立してラトガース大学から離れた。畠山らのいた時代には、本科(Classic Department)、科学コース(Scientific Department)、グラマースクールの3つの組織に分かれていた。

本科と科学コースが大学、グラマースクールがプレップスクール(大学進学用の予備門、及び大学進学者用の高校までの学校)という感じだろうか。

畠山が通っている当時、学校は3学期制(9~12月、1~4月、4~6月)になっている。現在のアメリカの大学はセミスター(2学期)が過半数で、クオーター(3学期)のところもある。現在のラトガースがどっちかは知らない。

アメリカは、進む産業革命の中、農学、科学、機械学、軍事戦略の発展を目指し、1862年にモリル法を通過させ、ランドグラント大学(Land-grant Colleges、又は大学以下の組織としてランドグラント・スクール)という制度を発足させる。これは連邦が管理する土地を州に下げ渡し、そこからの収入を産業科学関係の大学経営に宛てるもの。この制度によって発足した大学はかなり多い。

ラトガースはこの助成制度の獲得により、科学コースを1865年に開設する(モリル法通過から実施までに時間があくのは、南北戦争のため)。科学コースは3年制だが、学費が本科よりも高く、卒業によってバチェラー(学士、4年制卒業と同等)を取得できる。いわば速成コース的なものでもあった。

この、発足間もない科学コースに、1868年9月から、ブロクトンを脱出し来た畠山、松村、吉田の三人が入学した。

畠山らの入った年には、1つ上の学年に福井の日下部太郎がいる。日下部も、本科でなく、この科学コース卒業生である。彼は卒業時に成績優秀者として表彰されており、日下部の個人教師をしていたというグリフィスも、日下部が優秀であったことを伝えている。日下部は、卒業間際に結核で死亡してしまうが、それまでの学業成績により、ラトガースを卒業した。

同様に、75年に同じく優等生表彰されて卒業する服部一三も、この科学コース卒業である。この二人の間には何人かの日本人学生がいるが、卒業したものはいない。

科学コースでは、従来の大学教育に加えて、科学、工学、農業を中心とした授業を行い、ラトガースでは、土木機械工学のコースと農業化学のコースとに分かれていた。殆どの科学コース学生は、工学コースを取ったそうだが、「ランドグラント校」というと、農業大学と解釈される傾向があるそうだ。

 

実質的にラトガースにいた期間は?

ラトガースのカタログの中の名簿で見ると、畠山は2年間科学コースに籍を置き、1年間本科(普通学科)に籍を置いている。
この学生名簿は、各年とも、どうも1学期目(9月20日頃からクリスマスまで)のものであるようだ。
不思議なのは、2年目の記録と、4年目の記録である。

4年目は、もうアメリカにはいないのだが、カタログに名前がある。印刷した時点では在籍扱いだった、ということなのだろう。

69年は、同年暮れにアナポリスに入るはずの松村が学校にいて、畠山と吉田がいなくなっている。いなくなっているのに、Left(離校)として名簿に載せておく理由が不明だ。

松村は、69年の第1学期にはいたのだろう。第1学期は12月に終わるので、学期終了後に転校したと考えると、松村の69年12月にアナポリス入学というのがしっくりする。ニューブランズウィックからアナポリスのあるワシントンDCまでは、現在、連絡時間を入れて(直通は不便なのでフィラデルフィアで乗り換え)列車で4~5時間くらいだろうか。当時も大してかわらないのではないかと思うので、翌日からでも登校は可能だろう。

吉田は、68年12月にウェルブラハム・アカデミーへ転校したはずだが、その1年後にはアメリカを離れている。しかし、吉田も69年の名簿に名前がある。

吉田のことは知らないので置いておくが、この記録が正しいとすれば、畠山はなぜ69年の名簿で離校しているのだろう。ここで、グリフィスのいう「69年離校」という、ほかには書かれていないために誤記に思われる記録が信ぴょう性を持つ。卒業して日本へ赴く頃だったグリフィスはその頃畠山らとは連絡を取り合っていたはずなので、69年の秋には学校に行っていなかった彼等の事情を覚えていて、そう書いているのだろう。

ただ、離校の理由ははっきりしていて、畠山の書簡を見ると、69年夏、つまり、9月から始まる学期の金がない、ということで、相当困って日本へ手紙を送っている。その後、送られて来た学費が、全員分(日下部から小鹿たち、横井兄弟、及び薩摩留学生の三人)であったのに、日下部宛てになっていたために、畠山、吉田、松村の三人には行き渡らなかったらしく、後で問題になったりしている。

費用について

学費は1年間で、本科が60ドル、科学コースが75ドル、入学金に5ドル。
部屋代は、食事付き個室で1週間4~6ドル、個室でなければ3ドル。これには燃料と照明代は含まれない。

暖房付き(heated)と書いてあるので、暖房設備(暖炉か、石炭なり木炭なりのストーブであろう)はあるが、燃料(木炭なり石炭なり)は自分持ちということなのだろうと思う。照明は、ガス灯だと思う。この辺はトーマス・エジソンのお膝元なので、もしかすると電気かも知れない。

ということは、1年52週で、300ドルくらいだろうか。それに比べると学費の安いこと!

参考になるかどうかわからないが、2015年のラトガース(州立)の学費と食事付き部屋代の合計は、州民$26,185(うち学費$11,217)、州立大学のため、州外者は学費が$26,107で合計$41,575になる。

畠山は、スタウトの親戚(スタウトの父親の名にDuMountが入っているので)と思われるデュモント夫人宅(恐らく、ボーディングハウス=下宿)にいたと思われる。その後、折田も英語の個人教授をしてもらっていたと思しきMillstoneというところにあるコーウィン氏(Edward Tanjore Corwin。教師やオランダ改革教会牧師などをしていた人。畠山や折田のいた頃は、教授も牧師もしていないように見えるが、教会の報告等に執筆している)のところにいたとも言われている。

参考資料:Rutgers Maticulation Book(ラトガース大学アレキサンダー図書館特別コレクション内)、Rutgers Catalog 1865〜
 

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