ラトガース在校時代の畠山は、自分の学業に加えて、次々に送られてくる日本人留学生の世話役、監督役として、様々な便宜を図っていたらしい。
これはどうも、官費留学生になってから日本から任命されていた役割でもあるようだが、もともと留学生集団が出国したときからの任務継続でもあるだろう。クラークには「本持って、牢屋に閉じ込められて、勉強だけしていられたらいいんだけどなぁ….。他のことで呼び出されるのが多すぎるよ (^^;) 」とも言っていたことがクラークの著作Life and Adventure in Japanにある。
薩摩から一緒に出航し、彼一人だけがハリスのもとに残った長沢鼎が、畠山に金を送ってくれるように頼んだり、畠山が長沢にハリスのもとから離れるように促していると思われる記述が長沢の日記にある。つまり、畠山は日本からの送金を管理する役割にもあったようだ。
後に学生の監督役として、現在でいう領事のような立場として、少弁務史という肩書きで森が71年春にアメリカに赴任し、その後の留学生の金銭管理は森に移った。が、それまでの間は、薩摩だけでなく、留学生全体の面倒を畠山が見ていることから考えて、畠山の立場は、元薩摩藩士でなく、特に、政府が留学生を公式に認めた頃からは、官員的な色が濃くなるように見える。木戸孝允、長三洲が刊行していた新聞雑誌では、畠山がヨーロッパに渡るころ、畠山が留学生代表になったことを報道(というか告知?)している。
ラトガース・グラマースクール校長のライリーは、畠山が文部省(はその頃存在しないが)関係の任務でヨーロッパ経由の帰国を命じられた頃、畠山以上に学校と学生の世話がで きる人材はいないから、なるだけ早くアメリカへ戻してほしい、という手紙を教育担当長官宛に書いている。(「杉浦弘蔵メモ」)
後に東大の校長になる会津藩の山川健次郎 は、会津出身ということで、薩摩閥の匂いのあるニューブランズウィック周辺を避けて、エール大学に入ったというようなことを何かで読んだことがあるが、どうも、当初はラトガースのグラマースクールにいたようだ。当時の畠山が親切に彼を遇してくれたことを書き残している(会津藩に詳しい羽角様より頂いた情報。 山川健次郎の伝記の中にある)。
同じ賊軍側とされそうな仙台の富田鉄之助(のちにウィットニー・ビジネススクールに入り、日本で商科大学~現在の 一橋大学創設に貢献。海舟の伝記を書いている。モンソンの薩摩留学生で、その後エール大に入る吉原重俊と共に、設立期の日銀で総裁、副総裁を務める)や、 幕臣である海舟の息子の小鹿(はグラマースクール終了後、アナポリスの士官学校へ)、庄内の高木三郎(のち、在米領事)なども同時期にラトガース周辺にいて、官軍側である畠山らとは親しくつき合っていたようだ。やや余談だが、佐土原プリンス三兄弟の末っ子、町田(島津)啓二郎も、留学時代、会津藩の赤羽四郎と親しかったことが知られているので、日本での所属、肩書きのようなものはあまり問題でなかったようにもみえる。
畠山は、アメリカ人の教師や学校、教会関係者、日本の留学生派遣関係者、そして次々に渡米してくる後輩たちに信頼され、慕われていたように 見える。
これも余談だが、この富田の行っていた「ビジネススクール」はいまでいうMBAを取るビジネススクールではなく、日本でいうと商業高校、簿記専門学校のようなものではないか、と思う。このウィットニービジネススクールは、当時全米に50以上の支店(?)を持っていたチェーン展開のビジネススクー ルの一つである。富田のいたビジネススクールを主催していたウィットニーの娘がクララで、後に海舟の息子の梶梅太郎と結婚した。