ハリス教団を離れ、ラトガース大学(当時はラトガース・カレッジ。現在はユニバーシティ)に入った畠山は、1871年10月に政府からの召還によってアメリカを離れるまで、ラトガース大学に在学する。科学コースに2年(間に休学の可能性あり)、本校に1年で、学期として合計3年になるようだ。
ラトガース大学は、当時(現在は州立)日本に洋学を普及させた初期の外国人の一人、ガイドー・バーベック(英語読み)、日本ではフルベッキ(オランダ語読み)の名で知られる英語教師、及び宣教師の所属していたDutch Reformed Church(オランダ改革派教会)系の大学で、フルベッキの関係から、幕府が留学を許可する1866年から多くの日本人の留学生を受け入れた。岩倉使節前後の時期には、50名以上の日本人留学生が、ニューブランズウィック周辺にいたという。
日本人留学生等のやってくる直前の1864年に、神学部が別組織の神学校として独立したため、正式には宗派とは別だが、理事の多くがこの宗派に属していた。
ラトガースのあるニューブランズウィックは、フィラデルフィア〜ニューヨーク間をつなぐ鉄道の真ん中よりややニューヨークに近いニュージャージー州にある。畠山らのいたときに、既に路面電車も通り、かなりの繁華な町であったようだ。
元は、フィラデルフィア〜ニューヨーク間の船便で開け、その航路を鉄道が取り代わって行った。現在も、ほぼ全く同じルートであろう鉄道が通っており、アムトラック(全米規模の鉄道会社)のワシントン〜フィラデルフィア〜ニューヨーク〜ボストン路線が走り、 フィラデルフィア〜ニューヨーク間には、通勤用郊外電車が通っている。
古い町も至る所に残るが、駅前に医薬関係のジョンソン&ジョンソンが本社を構え、ラトガースは近隣地も含めて、かなり広範囲にキャンパスを広げている。しかし、つい最近(2010年代?)駅前が一新されてしまい、景色が変わったと嘆く声もあるようだ。駅舎も近いうちに変わるかも知れない。
通勤列車で隣の駅には、アイビーリーグの名門校で折田彦市のいたプリンストン大学もある。現在は、プリンストンの方が私立、ラトガースが州立だが、畠山や折田のいた時代には、ラトガースが教会関係の私立、プリンストンがニュージャージー大学という公立大学だった。
ラトガースとその関係者
オランダ改革派教会ではフルベッキが有名だが、この宗派と日本との結びつきは、むしろブラウン牧師(サミュエル・ロビンス・ブラウン)によるもの。
ブラウンは日本以前に中国でも宣教活動を行い、Yung Wing(容閎)などの留学生をアメリカに招いたことでも知られている。日本人留学生の一段落した1872年からは、そのYung Wingが主導して、かなり大勢の中国人留学生がやってくる。彼らはChinese Education Missionと呼ばれた。—この中国からの留学プロジェクトについては、英語版Wikiに参考資料等のリンクが集まっているのでそちらをご参考頂きたいが、日本と中国で近代を担った多くの英才がアメリカで同じ大学に通っていた。近代の日中関係にもダイレクトなつながりを持っているに違いない。
かなり大勢いた日本人留学生だが、実際に彼等の多くが通っていたのはラトガース大学でなく、中学高校に相当する予備門的な施設のグラマースクール、及びラトガース周辺(ニューヨークからフィラデルフィア郊外くらいまでのエリア)の様々な学校である。
ウィリアム・エリオット・グリフィスによれば、横井兄弟(横井小楠の甥。ラトガース時代は伊勢佐太郎と長沼三郎の変名。最初のラトガース留学生)の頃から、日本人留学生の入学の世話をしたのは、この教会に属するクリスチャンの集団であったという。
フェリスがグリフィスに宛てた手紙を見れば、クリスチャンの根強いチャリティー精神が、右も左もろくにわからぬであろう彼等の生活と学業を支えたことがわかる。
これは特に布教と直接に結びついたものではなく、欧米の比較的余裕のあるキリスト教徒にありがちな、後進国援助の一環でもある。オランダ改革派は、南北戦争の黒人解放運動などにも大きく影響する派である。が、日本人留学生を支えたのは、彼らの生粋の善意である。
グリフィス姉弟とEWクラーク
この大学での畠山の友人、エドワード・ウォーレン・クラーク(「青年よ、大志を抱け」のクラークとは全くの別人)は、後に、旧幕臣の学校で、元の昌平校の延長でもある静岡学問所の教師、及び宣教師として日本へ渡る(1871~76。静岡にいたのははじめの1年。のち畠山校長時代の開成学校教師)。
著書に、海舟について書かれた「Katz Awa – Bismark of Japan」(これは、「本」と呼ぶにはあまりにも小さな、冊子のようなものだが)や、日本での生活を書いた「Life and Adventure in Japan」がある。クラークは1、2年は別の学校で、3、4年をラトガースに転入してるようだ。
また、フルベッキやヘボン式ローマ字で有名なヘップバーン、幕府に開港を迫ったフィルモア文書のフィルモア大統領、ペリー提督など、日本に関わった初期のアメリカ人について多くの著作を残すウィリアム・エリオット・ グリフィスも、畠山、クラークと同時期にラトガースにいて、ラトガースから福井に科学関係の教師として渡っている(1870~74。こちらも福井にいたのははじめの1年。その後、開成学校の前身であった南校や畠山校長時代の開成学校の教師)。
グリフィスは、奴隷解放時代のオランダ系アメリカ人や、オランダ、韓国に関する著作も数多く残している。グリフィスは卒業時に表彰されている優等生であり、神学校にも通った。グリフィスもクラークも、学者/教師であると同時に、宣教師でもある。
クラークの方は兄弟全員が宣教師/牧師で、父親のルーファスは多くの著作を持つ聖職者であり、叔父さんもロードアイランドのエピスカパル教会のビショップだったという(Hamish Ion: Edward Warren Clark and Early Meiji, Cambridge Journal、ルーファスW. クラーク死亡記事 8/11/1889より)。
グリフィスとクラークは、グリフィスの方が年が上で、1年先に卒業していることになっている記録が多いのだが、ラトガースのカタログでは、二人は畠山が入ったのと同じ年に、4年生になっている。クラークは日本へ来る前に、故郷のアルバニー(NY州中部)で神学校に行っているようなので、その辺が関係しているのかもしれない。
この二人は従兄弟同士で、グリフィスの姉で女子師範学校の教師も務めたマーガレット・クラーク・グリフィスのクラークの名は、クラークとの親戚関係を表している。或いは、この二人は後に結婚したのか?と思ったが、そうではなく、クラークの父親とグリフィスの母親が兄妹(姉弟?)の関係である。(尚、グリフィスとクラークが従兄弟というのは、グリフィス文書アーカイブのキューレーターの方の談。記録としては知らない。)
その他のラトガースOBとオランダ改革派
上述の通り、フルベッキがこの宗派(ラトガース大学には所属していないが、後にラトガース大学から名誉博士号を得ている)の宣教師だが、後に日本にやってきて、文部省学監となるモルレーことデビッド・マーリーPh.D.もラトガース大学の数学、科学(自然哲学 Natural Philosophy)、天文学の教授である。
他にも、フルベッキの上京に伴って、長崎での任務を取り代わるヘンリー・スタウトや、初代米国公使ハリスの後任のプリューインとその息子をはじめ、宣教師、或いは教師として来日した卒業生はかなり多い。グリフィス、クラーク、マーリーのいる時期には、教師に大勢のラトガースOBがいる。横浜の教会にいたバラー牧師もラトガースの卒業生であるようだ。
他の宗派の記録を調べていないが、アメリカのオランダ改革派は、維新前後の日本に最も大きな影響を与えた宗派であるといっていい。日本に帰国してから、また、アメリカにいた期間に与えた影響としては新島襄が絶大だが、これは新島個人のゆえで、宗派(会衆派)による影響は少ないと自分は思っている。
ラトガースには行っていないが、後の横浜共立学園を築いたマリー・プリューイン(元公使のプリューインとはいとこ。「プライン」とも書かれる)、マリー・キダー、ジュリア・クロスビーは改革派宣教師であり、宣教師ではないがマーガレット・グリフィスや、そのマーガレットと女子師範にいたヴィーダー夫人(夫は開成学校教師)なども改革派もこの宗派なので、女子教育のはじまりにも大きく関係している。
自分にとっては、ラトガース大学といえば、超コワモテの女子バスケットボールチームのイメージしかなかったので、ラトガースにこんなに日本の関係者がいる、と知った当初、非常に驚いた。ラトガースと日本の関係に就いては、グリフィスのRutgers Graduates in Japan(Google無料本あり)という出版物に詳しい
ランドグラント制度
当時、ラトガースは科学では全米有数の最先端のカリキュラムと実験設備を持つ、全米で三校の一つであったという(が、こういう記事は、見た時にわざわざメモっておかないので、あとの二校がわかんなくなってしまった)。ラトガースは、ランドグラント校となった翌年の1865年から科学コースを設けた。
ランドグラント校制度というのは、連邦が議員の数に比例して州に土地を下げ渡し、その収益をランドグラント校の運営に宛てる、というモリル法による助成金制度で、科学と化学、工学、農学、機械学という、時代の必要に沿った学問を提供するために設けられた制度である。いわゆる、現在でいうところのApplied Scienceに近いと思われる。
ラトガース大学の科学コース(当初はScience School、後にScience Department)は、当時のニュージャージー大学(現在のプリンストン大学)、トレントンの師範学校と競って、ニュージャージー州からランドグランド大学に認定された。このとき、ランドグラント奨学金獲得のための文章を書いたのが、マーリーだという。
ランドグラント制度によって設立された科学コースは、3年間でBachelor of Science(4年制大学卒と同等)を授与され、この時代に日本からラトガース「大学」(ほとんどはグラマースクールの生徒で、「大学」には行っていない)に行った生徒は、初代の日下部以下、全員がこの科学コースである。その内容その他については、次項以降を参照されたい。