フェリスの書いた「日本人がラトガースに来た経緯について」
ウィリアム・エリオット・グリフィスのThe Rutgers Graduates in Japanという本(というか冊子)に、日本からの留学生を初めて受け入れたときの経緯が、フェリス牧師からグリフィスへの手紙として載っている。以下はその拙訳。
1866 年の秋、用を足して、NYの外国伝導協会へ午後遅く帰ってくると、労働者らしい男と、中国人と思しき二人の青年がいた。男は小船(Bark=小型の帆船) の船長で、二人の青年は日本人だった。アメリカの服を着ていた。彼等は、その頃長崎にいたフルベッキからの手紙を私に手渡したが、そこには、彼等が良家の 者で、関心を持つに値する、ということだけが書かれていた。彼等は、フルベッキの学校で数ケ月英語を学び、また、ここへ来るまでの6か月に渡る船旅の間にも、英語を覚えたようだった。
彼等は、航海術 と、「大きな船」と「大きな砲」の作り方を学んで、彼等の国がヨーロッパの列強に奪われることを阻止したいのだと言った。彼等はこの地で生活を始めるため、金で$100ほどを持っていた。彼等は日本の生活費から金額を割り出したらしく、彼等の目的を果たすに充分な額と考えていたようだった。私は、航海術の科学、特に、船の建設をきちんと理解するには、その前に、しておかなければならないことがたくさんあることを告げ、その目的を果たすには、彼等の持っている金額では到底足らないことを伝えた。しかし、私に出来ることとして、頻繁に訪ねてくるようにと伝えた。
フルベッキの手紙はすぐに外国伝導協会の役員会に提出し、二人の日本人青年との話を交えて報告書にした。役員会からは、彼等をニューブランズウィックに住まわせ、グラマースクールに通わせる便宜を図るようにとの指示が出された。また、日本から追って知らせがあるまで、金銭的に必要な援助をすることも決められ た。
役員会には、協会への出資者として大きな役割を果たす信者たちがいた。彼等は、協会からの資金が二人の日本人の目的を果たすのに役立つのであれば、必要な金銭的援助をすると約束してくれた。
二人の日本人の若者は、伊勢と長沼と名乗ったが、偽名だった。それからしばらくの間に日本からやってくる学生たちは皆、本名を捨て、偽名を名乗っていた。
私は彼等と少し話しをして、ヴァン・アースデール夫人のところに下宿できるよう、ニューブランズウィックまで二人について行き、彼等が誰か、何の目的でやって来たかを夫人に説明した。夫人は、相談をすると言って席を外したが、程なく応接間に現れたときには、故ジェームス・ロメイン牧師の未亡人を連れていた。
この素晴らしいクリスチャンレディ二人は大変協力的で、むしろ、熱心すぎるくらいに、それこそが主と日本のために大切な仕事であると言い、そのチャンスに恵まれたのだと言って、即座に、彼等を自分の子供のように面倒をみようと歓迎してくれた。
それから私たちは、グラマースクールの教区牧師であるアレキサンダー・マケルビー牧師のところへ歩いて行き、そこでも心のこもった歓迎を受けた。マケルビー 牧師は、日本からの学生に対する教育と、彼等を通じて日本人にキリスト教の恩恵を伝えられることを大変に喜んだ。
しかし、これらの歓迎は神の摂理としてであって、日本人留学生に寄宿先を見つけることは、しばらくの間、容易ではなかった。
他の下宿者が、日本人を下宿させ るのであれば自分達が出ていくと脅したり、アイルランド人の召し使いたちは皆、彼等を受け入れるのであれば、彼等が出て行くと主人を脅した。私自身、日本人の皇族であり、貴人然としたアズマ公と、彼の三人の随行者のための寄宿先 がみつからず、2日を費やしたことがある。しかし、ヴァン・アースデール夫人とロメイン夫人が初めに誓った約束を果たして下さったこと、また、マケルビー 牧師が、彼等のために、辛抱強く、彼等の身になって考え、真実の教師になって下さったことは、わざわざ語るまでもないだろう。
二人の留学生にとって、外国への渡航は大罪であった。彼等は政府の許可なく出国し、許可を得ることは、ほぼ不可能であった。幸い、彼らの叔父(横井小楠)は、大名の覚えもめでたく、当時の日本で重視されている存在であった。彼は日本の進歩派の中で重要な位置を占めるようになり、二人の外国奉行(Minister of Foreign Affairs)の一人に就任した。
彼の二人の甥は、彼や、彼等の家族、友人たちに手紙を書いた。私もまた、役員会のメンバーとして、特に、教会から日本に赴任しているフルベッキや、ブラウン、バラーに手紙を書いた。フルベッキは、日本に大きな影響力を持っていた。ブラウンは、アメリカ大使館の通訳を務めていた関係で日本人首脳に知られており、日本の政府に、伊勢と長沼の取った賢明な行動を理解し、アメリカに更なる留学生を送るべきであると説く任務にあたった。
日本政府はやがて伊勢と長沼の行動を認め、彼等の費やした費用を払い戻し、また、その後、志が果たせるべく費用の支払いを認めた。
これはアメリカにとって、また、ヨーロッパにとって、日本人の若者が西洋の科学を理解するという、大いなるムーブメントの始まりであった。その後の10年間、およそ500人ばかりの日本人が、あらゆる相談や援助を求めて協会を訪れた。彼らに対しては思慮深く接する必要があり、それには努力を要し、責任は重かったが、しかし、おしなべて愉快なことであり、今思い起こすと素晴らしいことがいろいろあった。熱心で誠実な彼等留学生が学問を進めることの思い出を語れば、何ページを費やしても足らないだろう。
日本のこのムーブメントは、将軍排斥という革命の開始をもって一つの山場を迎えた。学生の多くは、送金が途絶えた。彼等は私のところへ来て、それぞれの窮状を訴えた。私は知人や友人を訪ね、また、手紙を書いた。私が呼びかけるまでもなく、すぐに、将軍の打倒が果たされるまで資金援助をしようというグルー プが形成された。それは、Jonathan Sturger,、James Schieffelin、James A. Williamson、D. Jackson Steward、Robert H. Pruyn将軍、Anna M. Ferris夫人の面々である。
やがて1868年に革命には決着が着き、留学生たちに貸与した資金は払い戻された。また、日本から岩倉使節がやって来た際には、その偉大な親愛に感謝する旨の書を頂いたが、そこには、いかなる交流にも増して、アメリカへの友情を育む役割を果たしたと記してあった。
支援者の中には、500~600ドルもの援助をされた方もあった。上記した方々の他にも、献金して下さった方々はあったが、様々な目的をもって出されたものもあり、良い印象を持たないものもあった。協力して下さった主だった方々は、上記した通りである。
牧師ジョン・フェリス
ニューヨークにて 1885年12月30日
1885年6月、ラトガース大学で行われたグリフィスの演説に、創立150周年記念の編集を加えた1916年版「The Ritgers Graduates in Japan」(ラトガース大学発行)より
The Rutgers Graduates in Japan by William Elliot Griffis, 1885, Rutgers University
注: 「日本人を下宿させると出ていくと脅した」云々は、有色人種に対する偏見と、インディアン(東海岸には少ないが)、又は中国人に見えることに対する偏見と思われる。アイルランド人は入植が遅く、19世紀後半から20世紀前半に、大勢がアメリカに移民して来る。彼等はイギリス系、ドイツ系など、先に入植し た白人の使用人である場合が多く、奴隷制のある時代には、農場などで、主に黒人を指揮、監督する役に就く準黒人的な扱いで、それより後に移民してくるイタ リア人と共に、差別される側の層であった。富裕層の使用人の立場であったアイルランド人は、自分よりも身分が低いはずの東洋人に対して仕えることを嫌い、また、彼らに職を脅かされることを恐れたのが差別の要因だろう。
その後、同じ差別が、中南米人、現在の旧ソ連、東欧人などに移行する。中国人は、鉄道敷設に伴って多くが移民してきて、鉄道の開発と共に各地に広がった。要するに、差別の底上げのようなもの。自分達よりも下の人間を想定して、自分の位置を高めようという、基本的な差別思考が日本人留学生に対しても存在した、ということ。