短い半生まとめ

話が長いんじゃぁ!!!

という(自分の)声にお応えして、畠山の人生をざっと、短くまとめてみました。イギリス留学までは薩摩藩英国留学生記念館をはじめ各種資料がたくさんありますので、そちらをご覧ください。

1. イギリスからアメリカへ 1867
イギリス(UCL)へ留学した薩摩留学生のうち、畠山義成、松村淳蔵、吉田清成、森有礼、鮫島尚信、長澤鼎の6人が、イギリス人外交官オリファントと共に、アメリカの新興宗教であったトーマス・レイク・ハリスの教団に参加のため渡米。

2. ハリス教団 1867-68
NY州西端、エリー湖に近いブロクトンで、ハリスの教団員と共に集団生活。主に、農業や大工仕事に励む。68年6月、教義や将来に疑問を覚え、教団を離脱。MA州モンソンにいた薩摩留学生(仁礼景範、江夏蘇助、吉原重俊、種子島敬助、湯地定基)を経て、オランダ改革派教会海外伝道長のフェリスを知り、同教会の援助でNJ州ニューブランズウィックのラトガース大学に進学。ハリス教団から、吉田、松村も離脱して畠山に合流。

3. ラトガース大学 1868-71
金策に苦労しながら、ラトガース大学に通う。ニューブランズウィック周辺には、横井兄弟(小楠甥の大平、左平太)、日下部太郎(福井)、勝小鹿(海舟長男)、富田鉄之介(仙台)、高木三郎(庄内)らが既に留学しており、同地の薩摩留学生およびモンソンにいた薩摩留学生、新島襄などが交流する。

後年、留学が許可になると日本からの留学生が増え、畠山は留学生の世話役、監督役として奮闘。1868年末頃にはキリスト教に受洗する。

4. ヨーロッパ周りの帰国命令 1871/10
日本政府から、ヨーロッパの教育制度を調査しながらの帰国を命じられ、ラトガース大を中退、アメリカを発つ。

5. 岩倉使節に合流 1872/1
フランスまで行ったところで、岩倉使節合流のためアメリカへ戻るよう命令を受け、造幣関係の任務でドイツ、フランスに滞在していた吉原重俊と共にアメリカへ戻る。

岩倉使節合流後は、久米邦武と共に岩倉具視の書記として訪問先の取材につとめ、アメリカ滞在中に憲法翻訳勉強会を通じて木戸孝允とも親しくなる。

6. 帰国と文部省出仕 1873/9
岩倉、久米と共に帰国後、文部省に出仕。ラトガース教授時代から親しい学監モルレー(ここではマーリーとも言っている。Murrayはカタカナだとマリーに近いが、マリーでは女性の名のようなのでマーリーにしたが、一般的にあモルレーと言われるようなのでモルレーとも書いていてすみません)と共に、高等教育システムの基礎を築く。

7. 学監モルレーとの関係と文部省での仕事 1873/9-1876/10
開成学校、その予備門的な外国語学校の校長をはじめ、博物館、書籍館の館長、小石川植物園園長、文部小丞、中督学であり、天皇に西洋について教示する役も務めた。

ほかに、佐賀の乱の際の九州派遣(詳細不明)、金星の日面通過観測にも参加した。

モルレー夫妻とは個人的にも親しく、結核が進んだ1875年春頃からは、モルレー宅に同居する。

8. フィラデルフィア万博と最期 1876/10
主に、結核に冒された畠山を休ませる目的で、モルレーがフィラデルフィア万博への派遣を求める。田中不二麿らと参加し、6月にはラトガースから名誉修士号を受けたが、回復せず、日本へ帰る船の中で死亡。後の京大(旧制三高)校長となった折田彦市が介添えし、彼をはじめとする同乗の万博随行員らが死を看取った。