市成のある輝北町(現在は鹿児島県鹿屋市)の「輝北町郷土誌(2000年)」には、敷根家の家系が説明されている。そこでは、土岐四郎に相当する人を島津久☐、二階堂行の方も行☐と書いていて、両人とももう一字あるらしい。
久☐の名は何であるかについは以下の説がある。 続きを読む 土岐四郎について
市成のある輝北町(現在は鹿児島県鹿屋市)の「輝北町郷土誌(2000年)」には、敷根家の家系が説明されている。そこでは、土岐四郎に相当する人を島津久☐、二階堂行の方も行☐と書いていて、両人とももう一字あるらしい。
久☐の名は何であるかについは以下の説がある。 続きを読む 土岐四郎について
さて、その土岐四郎が当主であり、畠山義成の実家と考えられる市成島津家または敷根島津家は、武鑑の系図で二代前、すなわちこの兄弟のじーさんにあたる人が、島津石見久浮である。
この人も斉彬時代の家老で、当時の薩摩藩の記録に島津石見という名は結構良く出て来る。
ところが、系図を見ると、このじーさんは市成島津の人ではなく、二階堂家から養子に入っている。蔀が二階堂家に養子に入るのはその関係だろう。
一所持格の畠山家を遡ると長寿院盛淳にたどり着く。長寿院盛淳は、義成よりは有名なのでネットに情報がある。詳しくはそちらをご参考頂きたい。
それよりも近い時代の情報として、土岐四郎、二階堂蔀が兄である、と仮定する根拠は以下の通り。 続きを読む 土岐四郎と二階堂蔀と畠山義成
元治2年3月21日iに鹿児島を発った一行は、5月28日英国サザンプト着。(1865年6月20日ロンドン着とJapan Encounters the Barbarian by W.G. Beasleyにある。ロンドンとサザンプトは汽車で2〜3時間だと思うので同日に比定。21日としているものもある。慶応時代の暦と西暦の計算はできないのでしない。特に断っていない限り、このサイトにある年月日は、基本的に西暦です。)
この日から、畠山は、ハリス教団(トーマス・レイク・ハリスの率いるスピリチュアリズム集団。ブロクトン時代の項参照)に参加する1867年7月頃までの2年間をイギリスで過ごす。
その間、畠山は、66年の夏にはフランス、イギリス国内を単独旅行しており、短い旅行日記が残されている。 続きを読む イギリス留学
江戸時代よりも前のことはよくわからないので聞かないでもらいたいが、帖佐平山氏の一族である市成氏がいたことから、その辺りは市成というそう。大隅半島の桜島がつながっているところよりも北。その後、市成氏は島津氏に滅ぼされた(建武年中)そうだ。
敷根家は、美濃の土岐家と同族の土岐氏が敷根へ入って敷根氏を名乗ったという。これは鎌倉時代より前らしい。
要するに、市成は人名から、敷根は元々の土地名ということになるだろうか。 続きを読む 畠山の兄弟と父親
Andrew Cobbing氏のThe Satsuma Students in Britain: Japan’s Early Search for the essence of the Westのただで読める部分を読んだところでは、薩摩留学生たちはUCLには学費を払っているようだから、通ってはいたようだ。が、そこには、畠山がWoolwich(ロンドン西部)にあったロイヤル・ミリタリー・アカデミー(英国の士官学校)へ入ろうとしていたことに触れている。 続きを読む 市民軍参加
林竹二氏の「森有礼研究第二~森有礼とキリスト教」によると、畠山がフランスなどに行っている1866年の夏休み、松村淳蔵と森有礼はロシアに行き、鮫島尚信と吉田清成はオリファントに連れられて、米国NY州中部、アメニアという町にいたトーマス・レイク・ハリスのもとを訪ねている。アメニアでハリス教団に触れた吉田と鮫島は、この集団に多大な関心を抱き、翌年、イギリスから以下のメンバーでアメリカへ転出した。
畠山ら薩摩留学生に、アメリカ転出の計画がもたらされたのは、吉田、鮫島とオリファントの影響であるそうだ。
オリファントは、開港間もない日本を訪れたエルジン卿について来日した。この見聞を書いた本を読んで、若きアーネスト・サトウが東洋の神秘の楽園に憧れたと、彼のA Diplomat of Japanに書かれている。 続きを読む ローレンス・オリファント
畠山らの一行が合流して間もなく、ハリス教団はアメニアからブロクトンに移住した。ブロクトンはナイアガラの滝からエリー湖沿いにオハイオ方向へ辿っていくとみつかる。この「ブロクトン」という地名は、英語 では、Brocktonとkが入るべきなのに、入らないBroctonというヘンな綴り。音もブロ「ン」クトンと「ン」が入るのがしっくりするので、この サイトには、英語の綴り間違い、日本語の表記ミスがあるかと思うが、正しくは「Brocton=ブロクトン」。 続きを読む ハリス教団に参加(1)
折しも日本は長州征伐から、高杉が長州男子の肝っ玉をお見せしている頃で、本国の争乱と困窮は薩摩から留学生への送金に支障をきたした。
ここに救いの手を差し伸べたのが、日本駐在の経験を持つイギリス人外交官、ローレンス・オリファントであった。自分と一緒にハリス教団に参加するなら、アメリカ行きの旅費を負担する、教団では生活費がかからず、学習も出来る、という話であった。 続きを読む ハリス教団参加(2)