そういう証拠はないので、あくまでも想像だが、岩倉使節在米時の森vs木戸バトルでの畠山の貢献度は大きい。
木戸がプライベートに畠山と懇意になっていくことが、森が仕事を投げ出して帰国するという無謀も、木戸が感情に任せて有能な外交官を更迭するという軽挙も阻止したと思うからだ。 続きを読む 森有礼と畠山の関係を考える
そういう証拠はないので、あくまでも想像だが、岩倉使節在米時の森vs木戸バトルでの畠山の貢献度は大きい。
木戸がプライベートに畠山と懇意になっていくことが、森が仕事を投げ出して帰国するという無謀も、木戸が感情に任せて有能な外交官を更迭するという軽挙も阻止したと思うからだ。 続きを読む 森有礼と畠山の関係を考える
フェリスの書いた「日本人がラトガースに来た経緯について」
ウィリアム・エリオット・グリフィスのThe Rutgers Graduates in Japanという本(というか冊子)に、日本からの留学生を初めて受け入れたときの経緯が、フェリス牧師からグリフィスへの手紙として載っている。以下はその拙訳。 続きを読む 日本人がラトガースに来た経緯
在学期間
畠山のラトガース在学について、グリフィスはなぜか、68年入学69年中退、或いは、67年入学という記述もしているのだが、計算が合わないので、68年に入学、69年に資金問題から一度通学を断念したものの復学し、71年に離校が正しいだろう。 続きを読む ラトガースでの畠山の在学期間、学科、費用など
ハリス教団を離れ、ラトガース大学(当時はラトガース・カレッジ。現在はユニバーシティ)に入った畠山は、1871年10月に政府からの召還によってアメリカを離れるまで、ラトガース大学に在学する。科学コースに2年(間に休学の可能性あり)、本校に1年で、学期として合計3年になるようだ。 続きを読む ラトガース大学とアメリカ人関係者たち
ラトガース在校時代の畠山は、自分の学業に加えて、次々に送られてくる日本人留学生の世話役、監督役として、様々な便宜を図っていたらしい。 続きを読む アメリカ留学時代の畠山の役割
モンソンの留学生を支援していたといわれる「ホーク」、即ち、Foggについてのいろいろを、やや支離滅裂的に以下に紹介する。 続きを読む フォッグの周辺
フェリスは、オランダ改革派教会の海外ミッション責任者で、横浜のフェリス女学院のフェリスである。細かく言うと、フェリス女学院の方はアイザックらしいので、留学生が関係したフェリスはその息子のジョン。 続きを読む 金策2:フェリスの援助
ラトガースでの約3年の学生生活の後、1871年夏、畠山は日本からの命令で帰国を決める。
当初、帰国の命令は、ヨーロッパ各国を回って、教育制度を見ながら帰国する、というものであったようだ。薩摩藩の命令という話と、文部省からの命令という話とあるのだが、クラーク、マーリーは文部省に呼ばれたと言っている。公文書館の記録では明治4年4月3日に、川瀬安四郎(河瀬真孝。変名は音見清兵衛)と共に帰国命令が出ている。既に明治も4年になっており、イギリスでは長州藩の人間が任命されているから、藩でなく、政府による召還とみてよいだろう。 続きを読む 帰国命令
当時の記録等には、留学出発の頃の名は畠山丈之助、良之介とある。
イギリス、アメリカでの名は杉浦弘蔵。英語では、弘蔵をKo ZoまたはKozoでK.Z.とも書き、杉浦はSoogiwooraと書いているものが多い。Sugiwoolaなどという綴りもある。久米の回顧録に 「ひろぞう」とも言っているが、これは単にふりがなをつけた人の誤植だろう。
2016年夏現在までにわかった出自について
1842年9月薩摩藩一所持の市成島津家、或いは敷根家、土岐家ともいわれる島津(右膳/主水)久誠の三男として生まれたと思われる。 続きを読む 出自について まとめ