帰国命令

ラトガースでの約3年の学生生活の後、1871年夏、畠山は日本からの命令で帰国を決める。

当初、帰国の命令は、ヨーロッパ各国を回って、教育制度を見ながら帰国する、というものであったようだ。薩摩藩の命令という話と、文部省からの命令という話とあるのだが、クラーク、マーリーは文部省に呼ばれたと言っている。公文書館の記録では明治4年4月3日に、川瀬安四郎(河瀬真孝。変名は音見清兵衛)と共に帰国命令が出ている。既に明治も4年になっており、イギリスでは長州藩の人間が任命されているから、藩でなく、政府による召還とみてよいだろう。 続きを読む 帰国命令

出自について まとめ

当時の記録等には、留学出発の頃の名は畠山丈之助、良之介とある。

イギリス、アメリカでの名は杉浦弘蔵。英語では、弘蔵をKo ZoまたはKozoでK.Z.とも書き、杉浦はSoogiwooraと書いているものが多い。Sugiwoolaなどという綴りもある。久米の回顧録に 「ひろぞう」とも言っているが、これは単にふりがなをつけた人の誤植だろう。

2016年夏現在までにわかった出自について

1842年9月薩摩藩一所持の市成島津家、或いは敷根家、土岐家ともいわれる島津(右膳/主水)久誠の三男として生まれたと思われる。 続きを読む 出自について まとめ

土岐四郎について

市成のある輝北町(現在は鹿児島県鹿屋市)の「輝北町郷土誌(2000年)」には、敷根家の家系が説明されている。そこでは、土岐四郎に相当する人を島津久☐、二階堂行の方も行☐と書いていて、両人とももう一字あるらしい。

久☐の名は何であるかについは以下の説がある。 続きを読む 土岐四郎について

家族親族

さて、その土岐四郎が当主であり、畠山義成の実家と考えられる市成島津家または敷根島津家は、武鑑の系図で二代前、すなわちこの兄弟のじーさんにあたる人が、島津石見久浮である。

この人も斉彬時代の家老で、当時の薩摩藩の記録に島津石見という名は結構良く出て来る。

ところが、系図を見ると、このじーさんは市成島津の人ではなく、二階堂家から養子に入っている。蔀が二階堂家に養子に入るのはその関係だろう。

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土岐四郎と二階堂蔀と畠山義成

一所持格の畠山家を遡ると長寿院盛淳にたどり着く。長寿院盛淳は、義成よりは有名なのでネットに情報がある。詳しくはそちらをご参考頂きたい。

それよりも近い時代の情報として、土岐四郎、二階堂蔀が兄である、と仮定する根拠は以下の通り。 続きを読む 土岐四郎と二階堂蔀と畠山義成

イギリス留学

元治2年3月21日iに鹿児島を発った一行は、5月28日英国サザンプト着。(1865年6月20日ロンドン着とJapan Encounters the Barbarian by W.G. Beasleyにある。ロンドンとサザンプトは汽車で2〜3時間だと思うので同日に比定。21日としているものもある。慶応時代の暦と西暦の計算はできないのでしない。特に断っていない限り、このサイトにある年月日は、基本的に西暦です。)

この日から、畠山は、ハリス教団(トーマス・レイク・ハリスの率いるスピリチュアリズム集団。ブロクトン時代の項参照)に参加する1867年7月頃までの2年間をイギリスで過ごす。

その間、畠山は、66年の夏にはフランス、イギリス国内を単独旅行しており、短い旅行日記が残されている。 続きを読む イギリス留学

畠山の兄弟と父親

江戸時代よりも前のことはよくわからないので聞かないでもらいたいが、帖佐平山氏の一族である市成氏がいたことから、その辺りは市成というそう。大隅半島の桜島がつながっているところよりも北。その後、市成氏は島津氏に滅ぼされた(建武年中)そうだ。

敷根家は、美濃の土岐家と同族の土岐氏が敷根へ入って敷根氏を名乗ったという。これは鎌倉時代より前らしい。

要するに、市成は人名から、敷根は元々の土地名ということになるだろうか。 続きを読む 畠山の兄弟と父親

市民軍参加

Andrew Cobbing氏のThe Satsuma Students in Britain: Japan’s Early Search for the essence of the Westのただで読める部分を読んだところでは、薩摩留学生たちはUCLには学費を払っているようだから、通ってはいたようだ。が、そこには、畠山がWoolwich(ロンドン西部)にあったロイヤル・ミリタリー・アカデミー(英国の士官学校)へ入ろうとしていたことに触れている。 続きを読む 市民軍参加

アメリカへ転出

林竹二氏の「森有礼研究第二~森有礼とキリスト教」によると、畠山がフランスなどに行っている1866年の夏休み、松村淳蔵と森有礼はロシアに行き、鮫島尚信と吉田清成はオリファントに連れられて、米国NY州中部、アメニアという町にいたトーマス・レイク・ハリスのもとを訪ねている。アメニアでハリス教団に触れた吉田と鮫島は、この集団に多大な関心を抱き、翌年、イギリスから以下のメンバーでアメリカへ転出した。

  • 畠山義成
  • 松村淳蔵
  • 吉田清成
  • 長澤鼎
  • 森有礼
  • 鮫島尚信

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ローレンス・オリファント

畠山ら薩摩留学生に、アメリカ転出の計画がもたらされたのは、吉田、鮫島とオリファントの影響であるそうだ。

オリファントは、開港間もない日本を訪れたエルジン卿について来日した。この見聞を書いた本を読んで、若きアーネスト・サトウが東洋の神秘の楽園に憧れたと、彼のA Diplomat of Japanに書かれている。 続きを読む ローレンス・オリファント